2019.08.14

昭和から平成へ ホッカイダー小原信好の 「AROUND THE JAPAN 35000kmの旅」vol.1

今も昔も、旅人にとって「日本一周」は憧れの旅。お金があっても、時間があっても、簡単にできることではない。誰もができるわけではないから、日本一周をしている旅人を見れば応援したくなるし、達成した人には賞賛と尊敬の念を抱いてしまう。 今から30年余り前、「昭和」が「平成」に移ろうとしていたあの頃、ひとりの青年がバイクで日本一周の旅に出発した。青年の日本一周を通して、当時の時代背景や、長旅にまつわる苦労や出逢い、喜びに触れてみよう。

著・小原信好

第1回 プロローグ 日本一周への憧れ&準備


「ツーリングマップル北海道」の担当で、フリーランスフォトグラファーである私、小原信好(オバラノブヨシ)は、1965年(昭和40年)生まれ、岩手県在住の身である。現在は「Hokkaider(ホッカイダー)」を名乗り、岩手県と北海道を往復する生活をしている。 私が高校生だった1980年頃と言えば、バイクブームが始まり、さまざまなマシンが各メーカーから発売された時期だった。しかし同時に暴走行為も問題視され、バイクにとっては悪いイメージも一般に広がっていた。 全国的に「免許を取らせない」「バイクを買わせない」「バイクに乗せない」のいわゆる「三ない運動」が盛んだった時代。PTAが高校生のバイク禁止を推進して、高校側もそれに従い、多くの高校では生徒のバイク免許の取得を禁止していた。 しかし、私が在籍していた高校は商業高校だったため、「免許はむしろ就職に有利」と評価されていた。よってバイク免許の取得も可能だった。そのため私のクラスでは、卒業までにほとんどの生徒が原付免許を、うち半分ほどが中型免許を取得していた。 そうなると当然のごとく、休み時間はバイク雑誌などを見ながら、「このバイクが欲しい」だの「あのバイクがカッコいい」だのと盛り上がり、話題はもっぱらバイク中心になっていた。漫画では「バリバリ伝説」の連載が始まり、レーサーレプリカブームも起こる。自分の中でもバイク熱はどんどん高まっていた。 高校卒業後は、HONDA二輪の関連会社に就職した。大好きなバイクに囲まれ、バイク販売店より先に最新のバイクに触れることができた。この頃の私の夢は、センスの良い小さなバイク店を開業する事だった。就職してすぐに、発売されたばかりのHONDA VT250FE(2型)を購入。出社前に、早坂峠(東北75C-4)にひとっ走りに行くほど元気だった(笑)。 もちろんバイク雑誌も読み漁っていた。GPレースやパリ・ダカールラリーなどのレースにも興味を持つと同時に、ツーリング企画のページにもドンドンと引き込まれていった。バイクで走れば岩手を飛び出し全国各地、色んな場所に行けるんだ!冒険ができる! そんなとき出会ったのが「賀曽利隆の50ccバイクで日本一周ツーリング 64日間19000kmの旅 上下巻」(1984年刊)だ。ご存知ツーリング界の鉄人カソリ氏の本である。ストイックなまでの超節約旅にロマンを感じ、バイク旅への憧れは増していった。 そして1986年、日本初のツーリング専門誌、ツーリングマガジン「Out Rider(アウトライダー)」が創刊される。それまでのバイク雑誌とは全く異なるコンセプトの「ツーリング雑誌」の登場は、私にとって大きな衝撃だった。ハイセンスなデザインとコピー&文章、そして圧倒的な写真力。これが、私の旅人生を決める決定的な本となったのだ。 「俺も旅に出る!日本一周をする!」このとき心は決まった! 当時勤めていた会社には「部品課」というのがあり、入社2年目にそこへ配属となった。まだパソコンが無い時代だ。パーツリストと格闘しながら、手書き複写の伝票で部品出しと配送をする毎日。消耗品のパーツは、部品番号を覚えるほどになった。 バイクシーズンになると、バイク店のほか、一般の旅ライダーもパーツ購入のため会社を訪れてきた。宿泊はもっぱらキャンプだった旅ライダー達は、一様にバイクもウエアも汚れていて、くくり付けられた満載の荷物はただならぬ雰囲気を醸し出していた。中にはパーツが出てくるまでの時間、地べたに座り、コーヒーを沸かすライダーもいた。 「いや~、カッコいい!」 ヒゲも生えていなかった小原青年はそう思い、あこがれた。 「これだよこれ!自分もそっち側の人間になりたい!」 盆休みになり、北海道ツーリングをした。しかし5日間の旅では物足りなかった。「ロングツーリングこそ、バイク旅の醍醐味だ」と思い、その後、勢いで会社を退職した。 世間はバブル時代に突入し、会社なんて辞めてもどうにでもなるだろうと思っていたし、私は日本一周を終えた後、世界一周にも出て行くつもりで計画を積み重ねていた。 退職後は昼夜のバイト(配送、運転代行など)で日本一周の資金を貯めた。旅の期間は180日、旅費は100万円と定める。バイクは当初、50ccで考えていたが、50ccだと積載可能量に難があるし、車の流れも考慮すると危険もある。結局125ccをセレクトすることにした。 そこで当時、ちょうど発売が決まった「HONDA NX125」を購入。「HONDA AX-1」の弟分的な存在で、ミニカウルが装着され、当時流行っていたデュアルパーパス(オンロードメイン、オフロードちょっと)というカテゴリーのバイクだ。パワーは貧弱だったが燃費は素晴らしく、荷物満載でもリッター50km近くの数字を出していた。 ウエアは、HONDAオリジナルのスポンサーワッペンがついたラリー風ジャケット、YOKOのオフロードパンツにAXOのオフロードブーツ、SHOEIのジェットヘルメットにSWANSのゴーグルとフェイスガードに身を包んだ。 テントは「ダンロップツーリングテント」。「王蟲(オウム)テント」と呼ばれた芋虫型のシルエットで、これは安価で多くのキャンプライダーが使用していた。ストーブは「コールマンピークワン」。ホワイトガソリン指定だったが、ガソリンタンクからレギュラーガソリン(赤ガス)を抜き出して使用していた。赤ガスを入れているとノズルが詰まることがあって、よくカンカンとノズルを叩きながら使用していたものだ。 日々次第に揃っていく真新しい道具を部屋に並べたり、テントは組み立てて寝たりしてみた。一人でほくそ笑む毎日。日本一周に出発するんだという高揚感と不安感で、私はドキドキ、ワクワク、ソワソワしていた。 そんなある日、親父が話しかけてきた。 (続く) ※当記事はツーリングマップル週刊メルマガにて2019年1月~4月に配信した記事を再編集したものです。