2020.09.04

私を走らせるもの vol.4 東北編(1)

思い出の風景、季節の味覚、そして本や映画、音楽などなど、あなたを旅へと誘うものは何ですか? あの頃見た光景が忘れられなくて…。小説に出てきた風景を自分の目で見たくて…。この曲を聴くと無性に旅に出たくなってしまって…。あの人に逢いたくて…。など、時に切なく、時に衝動的に、私たちを旅へ駆り立てる「装置」があります。不思議なことに、ほかの人にとっては何でもないものが、自分にとってはとても大きな影響を与えることも少なくありません。そんな、「私を走らせるもの」について、ツーリングマップル著者陣に語っていただきます。

著・賀曽利隆

~私を走らせる『奥州街道』前編 ~ by 賀曽利隆


旅にいざなうものはいろいろとあるが、ぼくにとっては「街道」が一番。ということで、我が愛読書、司馬遼太郎の『街道をゆく』の向こうを張って「賀曽利隆の街道を行く」をお伝えしよう。 『街道をゆく』は司馬さんの歴史紀行だが、「賀曽利隆の街道を行く」はバイクで1本の街道を丹念に追って走り、その間の宿場をひとつずつ、めぐっていくというものだ。 東北といえば「奥州街道」なので、まずは奥州街道から始めることにしよう。

松並木の続く奥州街道

奥州街道は日本最長の街道。終点の津軽半島の三厩(みんまや)までは117宿もある。北へ、北へと、ただひたすらに走りつづけるこの「長さ」こそ、奥州街道の一番の魅力といっていい。 「片雲の風に誘われて、漂泊の思いやまず」の芭蕉ではないが、奥州には抑えようがないほど旅心がかきたてられる。芭蕉も憧れを抱いた奥州。芭蕉の「奥の細道」と奥州街道は切っても切り離せない関係にある。 そんな奥州への誘いを胸に、スズキのVストローム250で日本橋を出発。奥州街道の全116宿をたどりながら三厩を目指すのだ。

おなじみの旅の出発点 日本橋

第1番目の宿場の千住宿へ。「江戸四宿」の千住宿はおおいに栄えた。 千住宿をあとにすると、埼玉、茨城を通り、栃木の宇都宮宿へ。ここまでは日光街道との重複区間。宇都宮宿は千住宿から数えて第18番目の宿になる。 JR宇都宮駅手前の交差点を左折し、県道125号で白沢宿に向かう。この道が旧奥州街道。東京から宇都宮までの旧奥州街道はほぼ国道4号に沿っているが、宇都宮から白河までは国道4号から大きく外れている。そのため「宇都宮→白河」間の旧奥州街道というのは、時代から取り残されたかのような区間になっている。ここには旧街道の風情が色濃く漂い、一里塚なども残り、宿場の家並みなどに昔のたたずまいが見られる。 宇都宮宿から白沢宿、阿久津宿、氏家宿、喜連川宿、佐久山宿と通り、那須野原の中心の大田原宿へ。ここまでは県道125号→国道293号→県道114号→県道48号というルートになる。大田原はこの地方の交通の要地で、現在でも何本もの道がこの町に集まっている。 大田原宿からは県道72号で鍋掛宿、越堀宿を通り芦野宿へ。ここには西行ゆかりの「遊行柳」が残されている。西行を熱烈に慕っていた芭蕉は、「奥の細道」では当然のようにこの地に立ち寄っている。今でも「遊行柳」は残されているが、山際の水田の中にある柳で、特にどうという木ではない。この柳はすでに何代も植え替えられている。 「遊行柳」の奥に小さな祠の湯泉神社があるが、その祠前には大銀杏。こちらは樹齢400年とのことだが、根回り6メートル、樹高は35メートルというとてつもない巨木だ。芦野宿から国道294号で寄居宿へ。ここが関東最後の宿場になる。寄居宿を過ぎると栃木・福島県境の明神峠に到達。いよいよ「みちのく」だ。峠には「境の明神」がまつられている。関東側に玉津島神社、奥州側には住吉神社。両社が国境を境にして隣りあっている。 明神峠を下っていくと東北最初の白坂宿に入っていく。ここから「白河関跡」へと寄り道をする。この道は芭蕉も通った。旧東山道の旗宿にある白河関は太平洋側の勿来関、日本海側の念珠関と並ぶ「奥羽三関」のひとつ。古代日本の北方警備の最前線だった。 白河関跡には白河神社がまつられている。白河藩主、松平定信の「古関蹟」もある。定信が「この場所こそ、白河関のあったところ」とお墨つきを与えた碑、それが「古関蹟」だ。「奥の細道」でも白河関跡はきわめて重要なポイントになっている。 「心もとなき日数かさねたるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」 と、白河関跡までやってきて芭蕉は、「みちのく旅」への気持ちを新たにした。 白河関跡前の旧東山道で、福島・栃木県境まで行ってみる。ここも明神峠。この峠は関東と東北を結ぶ最古の峠だといわれている。 旧東山道の明神峠には「追分の明神」がまつられている。もともとはここも「境の明神」といわれていたようだ。国道294号の明神峠と同じように関東側には玉津島神社がまつられ、奥州側にはかつて住吉神社があったという。峠には「従是北白川領(これより北は白河領)」と彫り刻まれた石塔が立っている。関東と東北の境には、このように瓜二つの明神峠がある。 白河関跡から白坂宿に戻ると、南湖公園に寄って30番目の宿、白河宿に入っていく。白河宿までが「江戸五街道」の奥州街道になる。 白河は奥州街道の宿場町であるのと同時に、奥州の玄関口の城下町。中心街の道幅は狭く、敵の襲撃を防ぐクランク道が残っていたりする。

白河宿を出ると阿武隈川を渡る。北上川に次ぐ東北第2の大河だ。

白河を流れる阿武隈川。奥州街道の田町大橋が見える

根田宿、小田川宿、太田川宿、踏瀬宿と、『ツーリングマップル東北』で場所を確認しながら奥州街道の宿場にひとつづつ立ち寄っていく。宿場にたどり着いたときは、何ともいえないうれしさを感じる。 根田宿には「根田の醤油」、小田川宿には小田川郵便局、太田川宿には愛宕神社がある。それらがちょうどいい目印になる。踏瀬宿を過ぎると奥州街道の松並木に入っていく。矢吹宿入口の水戸街道との分岐には、文化8年(1811年)に建てられた常夜灯が残っている。ここでいう水戸街道とは、矢吹から中島を通って棚倉へ、棚倉からは現在の国道118号で水戸に通じるルート。1本の街道を走ると、次々に新しい街道を見たり、知ったりすることができる。発見の連続、それが「街道旅」なのだ。 矢吹から須賀川、郡山、本宮、二本松といった中通りの主要な町々を通っていくが、これらの町々もすべて奥州街道の宿場町になる。

矢吹宿の常夜燈

須賀川宿を出るとすぐに須賀川市から郡山市に入る。郡山といえば今では福島県内でも一、二の大都市だが、江戸時代の郡山といえば寒村。郡山市内には笹川宿からはじまり日出山宿、小原田宿、郡山宿、福原宿、日和田宿、高倉宿と7宿あるが、拡大する郡山の市街地に飲み込まれ、ひとつづつの宿場を見極めるのがけっこう難しい。ここでも頼りになるのは『ツーリングマップル東北』だ。それら宿場の地名がひとつのこらず全部、出ているのがすごい。 郡山市から本宮町に入り、本宮宿へ。町の南側の旧奥州街道は「南の本陣通り」、町の北側の旧奥州街道は「北の本陣通り」と名付けられている。宿場町らしくていいではないか。本宮にはツバメが多い。ツバメのさえずりを聞いていると心から癒される。ここにはカラスは少ない。対照的なのは郡山だ。カラスは中心街を荒しまくっている。カラスが多くなるとツバメは急速に減ってしまうが、それ以上に荒んだ印象を与える。

本宮宿の土蔵造りの商家

本宮宿を過ぎると、左手には奥州街道一の名山、安達太良山が見えてくる。安達太良山を見ながら走る気分はたまらない。 杉田宿を通り、二本松宿に入っていく。ここは奥州街道の宿場町であるのと同時に、中通り最大の10万石の城下町。「霞ヶ城」と呼ばれた二本松城を歩く。箕輪門前には「二本松少年隊」の像。戊辰戦争の時、官軍と戦って散った二本松少年隊の像だ。城跡を歩き、見晴らし台からは安達太良山を眺めた。本丸跡からは二本松の町並みを見下ろした。 二本松宿の次は油井宿。奥州街道沿いには「智恵子記念館」がある。ここは詩人、高村光太郎の妻、智恵子の生家。このあたりでは一番の造り酒屋だ。東京での生活に病み、故郷を激しく想う智恵子の生涯に胸が痛くなる。「東京には空がない…」といって嘆いた智恵子。そんな智恵子がこよなく愛した安達太良山が目の前だ。 油井宿から二本柳宿、八丁の目宿、淺川新町宿、清水町宿と通り、福島宿に到着。 「まずは高い所に登れ!」 とばかりに信夫山(しのぶやま)へ。 この山は福島の市街地に海鼠(ナマコ)のような形をして横たわっている。福島を見下すのには最適のポイントだ。 展望台から福島の中心街と阿武隈川の流れを見下ろす。その向こうには、ゆるやかな阿武隈山地の山並みが連なっている。目の向きを変えると、東北新幹線の高架の向こうに吾妻連峰の山々と安達太良山を見る。その間の大きく落ち込んだところは土湯峠。まるで実物大の地図を見ているかのようで、「地図大好き人間」のカソリは、しばらくその場を動けなかった。

信夫山を下ると福島駅の東口へ。駅前には芭蕉と曽良の像が建っている。 福島駅前からは「奥州三名湯」の飯坂温泉へ。福島交通飯坂線の終点、飯坂温泉駅前には芭蕉像。共同浴場の「鯖湖湯」に入った。猛烈に熱い湯に耐えて、歯を食いしばって入っていると、「自分は今、奥州街道を旅している!」といった実感が味わえた。

飯坂温泉の「鯖湖湯」

さっぱりした気分で福島駅前に戻ったが、福島宿は奥州街道第56番目の宿場。これで全行程のほぼ半分を走ったことになる。 後編へ続く

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