2019.11.21

昭和から平成へ ホッカイダー小原信好の 「AROUND THE JAPAN 35000kmの旅」vol.3

今も昔も、旅人にとって「日本一周」は憧れの旅。お金があっても、時間があっても、簡単にできることではない。誰もができるわけではないから、日本一周をしている旅人を見れば応援したくなるし、達成した人には賞賛と尊敬の念を抱いてしまう。 今から30年余り前、「昭和」が「平成」に移ろうとしていたあの頃、ひとりの青年がバイクで日本一周の旅に出発した。青年の日本一周を通して、当時の時代背景や、長旅にまつわる苦労や出逢い、喜びに触れてみよう。

著・小原信好

第3回 日本一周スタート ~本州南下編~


「日本一周」の定義は、人によってそれぞれ違う。その人の目標次第で「日本一周達成」宣言はできるのだ。 私の場合は『47都道府県庁前到達』および『日本本土の"東西南北端"到達』を目標とした。旅の途中で出会った日本一周ライダーから 「『日本から海外が見える地点』へ到達していないと、日本一周にはならない」 などと言われたが、それはその人の満足度の問題だ。確かに、それも魅力ではあるが、こだわりは人それぞれだから。ちなみに、彼が言っていた「日本から海外が見える地点」をここであげておくと、 ★北海道稚内市「宗谷岬」(北海道58G-1)=「ロシア サハリン」 ★長崎県対馬市「韓国展望台」(九州沖縄64E-1)=「韓国 釜山」 ★沖縄県与那国町「西崎展望台」(九州沖縄73B-2)=「台湾」※ ※台湾までは111kmあり、年に数度、気象条件が良ければ、島影が見えるという。 私の場合は「韓国展望台」に行けなかったので、いつの日かリベンジ日本一周をするなら、是非とも訪れたい場所の一つだ。 当時、「ツーリングマップル」の前身「2輪車ツーリングマップ」が発売されていたが、確かまだ関東版しかなかった。そのため私が日本一周に使用した地図は、昭文社「エアリアマップ グランプリ」シリーズの「東日本道路地図」と「西日本道路地図」の二冊。各エリアにガイドページがあり、有名観光地も掲載されていて、立ち寄りスポットを選択するのに重宝した。

グランプリ東日本道路地図(こちらは1998年版)

昭和63年(1988年)、3月21日に岩手県庁前を友人たちに見送られて出発。 ピカピカのウェアを身にまとい、慣らしもしていない「HONDA NX125」に、これまた新品の旅道具を積載して、ぎこちない走りで国道4号を南下する。岩手県に住んでいたので、東北方面は立ち寄りどころを減らし、西日本を長めに旅しようと決めていた。 初日は宮城県庁まで到達した。仙台市に住む、高校時代の同級生のアパートに泊めてもらった。 二日目、福島県庁に到達。この日は福島県内のとある無人駅で、日本一周旅で初めての「ステーションビバーク(駅舎泊)」をすることになった。初めてと言っても、それ以前の北海道ツーリングで無人駅泊は経験済みだ。 【駅近くの方にあいさつする】・【終電までは寝具を広げない】・【始発前には掃除をして宿泊した痕跡を残さない】 これらの基本ルールを先輩旅ライダーに聞いていたので、まずは、駅前の商店に挨拶に行って、夜食を買い込む。 「今晩、駅に泊まらせてもらいます~」 と話をすると、商店の叔母さんは笑顔で 「はいはい、たまに旅人が泊まっているよ。気をつけてね」 と答えてくれた。「わかりました!」と、駅に戻って、到着する列車時間の合間をみて夕飯を作り出す。先日、親父から教わった通り(第2回を参照)に米を炊いてみるが、しっかりと芯が残ったご飯が完成した。 ボリボリと固いご飯をインスタントラーメンと一緒に食べていると、駅舎の窓が赤い光で照らされた。駅前にパトカーが到着。警官3人が入ってきた。 え?ヤバいのか!?焦る小原青年。 「こんばんは~!今日はここに泊まるの?」 「は、はい。一応、駅前のお店の方には一言、声をかけています…」 「まぁ、泊まっても大丈夫なんだけど、通報があったから、一応ね」 通報…。免許証を提示すると、 「岩手県都南(となん)村…?」 (当時私の住所は岩手県紫波郡都南村…。現在は盛岡市と合併しているが、当時人口が4万3千人以上で日本一の村であった。)と、警官の顔色が変わる。「ちょっと照会するから」と無線で話を始めた。 実は本来、私のバイクは原付二種のため、ナンバープレートは居住地の自治体名「都南村」となる。しかしその時は盛岡ナンバーであった。それは、旅の途中で「都南村では、岩手県から来ていることが分かりづらいから」と、盛岡市の知り合いに頼んで登録してもらったためだった。 一方、旅に出るちょっと前に、都南村のとある団地で「密造爆弾」の摘発があった。それはニュースとなり、村名も合わせて話題になっていた頃だった。 (…あれ?まさか爆弾犯の仲間と疑われている?) 結局、疑いが晴れたのか、駅を追い出されることなく 「火に気をつけてください」 と私に注意を促し、彼らは帰っていった。職務質問前に作ったラーメンは、スープがしっかりしみ込んで増量状態になっていた。 その後の旅でも、幾度となく職務質問を受けることとなる。通常見ることのない盛岡ナンバーのバイクが停められて、テントを張っていたり、ステーションビバークしたりしているのでは、それも仕方がないことだ(風貌も徐々に怪しくなっていくし…苦笑)。 それが今回のように済めばまあいいのだが、しかし日本一周後半、沖縄県石垣島に滞在中には、自宅まで警察官が訪れる事案が発生する。それはまた、沖縄編の時に。 旅は続く。 栃木県庁、茨城県庁、そして千葉県庁に到達。千葉県庁では、旅好きな県庁職員に声をかけてもらって、県庁の食堂で昼食をご馳走になった。ここで、「県庁の食堂」というのが安くて美味いことを知るが、節約旅なので、なかなか食べる機会がなかった。 今思うと、こういう時は節約せずに、あまり訪れる事などないであろう県庁食堂の味と雰囲気を楽しめば良かったと、ちょっと後悔している。千葉県庁の食堂のテレビでは、高知の修学旅行生が多数死傷した「上海列車事故」のニュースが流れていた。 土曜になって、東京都庁に到達。この日は、北海道ツーリングで出会って、その後、ちょこちょこと手紙のやり取りをしていた都内在住のY子さん宅に泊めていただくことになっていた。小雪舞う寒い東京駅前での待ち合わせ。 無職の旅人、小原青年は、足早に横断歩道を渡るサラリーマン達を眺めながら、出発前に読んだ伝説のレーサー、浮谷東次郎の「がむしゃら1500キロ」を思い出していた。 当時中学3年生の東次郎が50ccのバイクで、まだ舗装化が進んでいない国道1号を東京から大阪まで走り、道程で様々な人達と出会うツーリング紀行だ。その中に、「自分が道楽で旅をしているのに、働く人を見て思う。」的なくだりがあった。 日が沈み、ネオンが輝き出す大都会で、自由にどこに行っても良い開放された身になった自分と、この前までがむしゃらに働いていた自分を重ねて、不思議な気分になっていた。でも、 「ごめん、お待たせ~!久しぶりだねー」 と笑顔で現れたY子さんに再会して、そんな変な気分は吹き飛んで、一気に幸せな気持ちになった(笑) 翌日、Y子さん家族は「お掃除DAY」(?)ということで、名残惜しくも早々にお暇した。美人姉妹に見送られて出発し、神奈川県庁に到達したのち、伊豆半島を一周。そして、国道1号沿いの公園にある駐車場の端をキャンプ地とした。 「国道からは見えないから」と安心してゆっくりしていると、夜遅くになって「パラララパラララ」という、けたたましいホーンを響かせながら、数十台の爆走系バイクが集まってきた。 ビビりながらテントの中で身構える小原青年。 さて、どうする。 (続く) ※当記事はツーリングマップル週刊メルマガにて2019年1月~4月に配信した記事を再編集したものです。

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