2020.06.03

ツーリング前に知っておきたい!「あの映画・小説はココで生まれた」vol.12

漫画やアニメ、映画やドラマ、小説、歴史的事件などの舞台を旅する「聖地巡礼」がメジャーになってきた昨今。物語の舞台になった場所は日本中にたくさんありますが、案外、そのことを知らずにツーリングで訪れて満足していることも多いものです。 せっかく行くなら、その土地にちなんだ作品を鑑賞したり、歴史を知ったりしたうえで行ったほうが、何倍も楽しめますよね!そんな作品や歴史、土地について、ツーリングマップル各著者から紹介していもらいます!気になった作品を見て、その場所を訪れてみましょう!

著・内田一成

中部北陸を舞台とした小説や映画というと、なにかこう人間存在の根源に迫るような重いものが多いような気がする。 最近のものはそうでもないのかもしれないけれど、この4,50年より新しい日本の作品は触れたことがないのでよくわからない。 ふとした情景に描かれているものも含めると、明治維新直前の、木曽の人の思いを描いた藤村の「夜明け前(リンク:青空文庫)」とか、明治の殖産興業の働き手として売られていく女工の姿を追った細井和喜蔵の「女工哀史(リンク:Wikipedia)」とか、あとは、北陸の風景が物語の雰囲気を決定づける松本清張の作品「ゼロの焦点(リンク:Wikipedia)」や「Dの複合(リンク:Wikipedia)」とか。天候が厳しく、暗く、貧しい、悲哀に満ちた田舎というイメージがどうしても浮かび上がってくる。

でも、今は逆に、そんなステレオタイプな日本の寒村風景がなくなったせいか、読み返してみると、身につまされることもなく、どこか遠い世界の話のような気がしてくる。 そんな中で、異質な雰囲気を漂わせているのは泉鏡花だろう。鏡花は金沢の生まれで、明治初期に少年時代を過ごしたため、加賀藩の栄華の記憶とそれが次第に薄れていく記憶とが綯い交ぜになって、独特の世界観を展開する。 その代表作の「高野聖」は、薄れゆく時代のノスタルジーを幻想小説として表現している。岐阜県の北部、石川県と富山県との県境間近なあたりは、格別に山深くて、通じる道は今でも数本しかない。「高野聖」の舞台となった天生峠付近は、峠の両側10km以上も人家がなくて、まさに隔絶された山の中だ。 登山者もいない平日に、この峠を越えていく人はほんのわずかで、オートバイを止めて佇むと、濃厚な山の気配に圧倒される。時折、鳥や獣の声が響き渡り、それが、「ここによそ者が来たぞ」と告げているようで、不気味に感じられる。 若狭へ帰省する列車で、「私」は一人の旅僧と乗り合わせる。この僧は、越前から永平寺を訪ねる途中に敦賀に一泊するという。列車の中で気が合った二人は、旅僧の馴染みの宿に同宿する。そして、夜の床で旅僧はある怪奇譚を語りだす。怪奇譚の内容は、まだ未読の人にネタバレになってしまうから書かないけれど、ただの恐怖物語というのではなく、どこかしら雅な雰囲気を湛え、さらに妖艶な話で、怖いと思いつつも引き込まれてしまう。 日本では、古代から近世に至るまで、夜の闇の中に蠢く魑魅魍魎や鬼、妖魔といったものが信じられてきた。それが、明治の文明開化で西洋合理主義が持ち込まれると淫祠邪教、迷信として排斥されていった。だけど、心の奥深くには、合理主義だけでは片付けられない古い記憶の残滓があって、それが時々、表層に浮かび上がってくる。 誰もいない天生峠に佇んでいると、まさに自分の心の深層にある古い記憶の残滓が浮かび上がってきて、ぞわぞわとしてくる。そして、ここで妖魔に出くわしたら、その誘惑に抗うことはできないなと思う。 単純に「お化けが怖い」というのではなく、怖さの中にどうしようもなく好奇心と本能を掻き立てられるものがあって、その異界に足を踏み込んでも、それはそれで満足かもしれないと思ってしまう。鏡花の幻想小説は、そんな独特の魅力を持っている。 晩年、鏡花は折口信夫との対話の中で、 「自分は、『四谷怪談』のような怖くて陰惨な話は性に合わないんです。そして、恨みつらみを持たぬもの、怨霊ではない妖異を描こうとしてきたのですが、うまくいかなかった」 と述懐している。『高野聖』では、まさに鏡花が目指した恨みつらみとは関係なく、怨霊でもない妖異の姿が見事に描き出されていると思うのだが…。 あなたも、天生峠で鏡花の妖異に誘われてみてはいかがかな? ​「高野聖(青空文庫)」

関連記事