2020.09.12

私を走らせるもの vol.5 東北編(2)の2

思い出の風景、季節の味覚、そして本や映画、音楽などなど、あなたを旅へと誘うものは何ですか? あの頃見た光景が忘れられなくて…。小説に出てきた風景を自分の目で見たくて…。この曲を聴くと無性に旅に出たくなってしまって…。あの人に逢いたくて…。など、時に切なく、時に衝動的に、私たちを旅へ駆り立てる「装置」があります。不思議なことに、ほかの人にとっては何でもないものが、自分にとってはとても大きな影響を与えることも少なくありません。そんな、「私を走らせるもの」について、ツーリングマップル著者陣に語っていただきます。

著・賀曽利隆

盛岡でひと晩泊まり、翌朝は盛岡城址の岩手公園を歩いた。盛岡といえば南部藩20万石の城下町。それなのに城址には石垣が残る程度…。ちょっと寂しい。 盛岡宿から次の渋民(しぶたみ)宿へ。ここは石川啄木の故郷だ。 渋民では「石川啄木記念館」を見学。館内をひとまわりすれば、石川啄木の生涯がよくわかる。敷地内には啄木が代用教員を務めた旧渋民尋常小学校の校舎が残されている。「石川啄木記念館」に隣あった宝徳寺は啄木の幼年期を過ごした寺。境内には啄木の歌碑が建っている。国道4号(旧道)をはさんだ反対側の渋民公園にも啄木の歌碑。啄木公園からは北上川の向こうに聳る奥州街道の名山、「岩手富士」の岩手山(2038m)が大きく見える。奥州街道の宿場の中では渋民宿からの距離が一番、近い。

奥州街道から見る岩手山

渋民宿の次の沼宮内宿を過ぎると国道4号を右折し、旧奥州街道に入っていく。2キロほど行くと左手には御堂観音堂。その境内から湧き出る「弓弭(ゆはず)の泉」は、昔から東北一の大河、北上川の源だといわれている(正確にいうと北上川の源は奥中山高原の西岳)。「弓弭の泉」の流れ出る所は北上川源流公園として整備されている。

北上川源流の御堂観音堂

「弓弭の泉」から旧奥州街道を行くと一里塚があり、ゆるやかな峠に達する。峠で交差する県道30号を左折し、国道4号に出た。そこは中山。IGRいわて銀河鉄道の奥中山高原駅前だ。 中山から北に走るとすぐに、国道4号の最高所、十三本木峠(中山峠)に到達。

国道4号の十三本木峠

ここまでが北上川の世界になる。峠を越えると川は変わり、馬渕川の世界になる。小繋宿、一戸宿、福岡宿、金田一宿と通り、国道4号で青森県に入った。

一戸宿に入っていく

三の戸宿、浅水(あぞうず)宿、五の戸宿、七の戸宿、伝法寺宿、藤島宿、七の戸宿を通り、野辺地宿に到着。目の前には陸奥湾の海が広がっている。野辺地の海岸には常夜灯が残されている。その説明は興味深い。 「浜町の常夜燈は、文政10年(1827)、野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきた。常夜燈には、毎年3月から10月まで夜ごと灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。 江戸時代には物資輸送の大動脈であった大坂(大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海航路。野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、領内の海産物・大豆・銅などを積み出す船や、塩・木綿・日用品などを積み入港する船でにぎわった。 湊には湊役所・銅蔵・大豆蔵などの施設や廻船問屋の船荷蔵があり、船は沖合に停泊し、はしけ船によって船荷を運んでいた」

野辺地宿の常夜燈

野辺地宿は奥州街道と当時の日本の大動脈、北前船が行き来する日本海航路との接点で、相当にぎわった港だったことが、海岸に残る常夜灯から読み取れる。常夜灯の前には北前船の千石船が復元されている。

野辺地宿の千石船

野辺地宿からは海沿いに走り、小湊宿、野内宿と通り、青森宿に到着。日本橋から852キロの青森駅前でVストローム250を止めた。奥州街道は松前街道と名前を変えて、さらに津軽半島の三厩宿までつづいている。

青森でひと晩泊ると、次の油川宿へ。ここは「東北二大街道」の奥州街道と羽州街道の合流地点。油川宿の中心街には「青森発祥の地」碑が見られる。 国道280号の旧道で蓬田宿、蟹田宿、平館宿と通っていく。 平舘海峡の灯台前を通り、津軽海峡に出ると北海道が見えてくる。絶景岬の高野崎に立つと前方には北海道最南端の白神崎、右手には下北半島北端(本州最北端)の大間崎、左手には津軽半島北端の龍飛崎を望む。 高野崎から今別宿を通り、日本橋から938キロ走って奥州街道終点の三厩宿に到着。ついに到着したという感じだ。千住宿から数えて117番目の宿場。三厩港の岸壁にVストローム250を止めた。

奥州街道の終点の三厩に到着

奥州街道終点の三厩はじつに興味深い。 三厩港の前には「松前街道終点」の碑が建っている。松前街道というのは「青森→三厩」間の奥州街道のことだが、じつは三厩が終点ではなく、さらに船で蝦夷地の松前まで通じているので松前街道なのだ。 「松前街道終点」の碑に隣りあって、「源義経渡道之地」の碑が建っている。断崖上には義経寺がある。津軽海峡を渡った北海道・日高の平取には義経神社があり、義経は「競馬の神様」になっている。義経も弁慶も北海道ではあちこちで神として崇め奉られている。弁慶岬もある。これはいったいどういうことなのか。 平家を打ち破り、源氏に大勝利をもたらした立役者の源義経は兄頼朝の反感をかって都を追われ、義経・弁慶の主従は命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目秀衡の庇護を受けた。しかし頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。 秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。それは頼朝の平泉攻撃3カ月前の文治5年(1189年)4月30日のことだ。 こうして悲劇の英雄、義経は、奥州・平泉の地で最期をとげたことになっているのだが、なんとも不思議なことに平泉以北の東北各地には義経・弁慶の主従が北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が点々とつづいている。 それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経・弁慶が泊まったという民家だったり、義経・弁慶が入った風呂だったり…。その「義経北行伝説」の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を横断し、三陸海岸から八戸、青森、そして津軽半島の三厩へとつづいている。「義経北行伝説」はさらに北へ、蝦夷地へと果てしなくつづいている。 奥州街道の終点、三厩までやって来ると、この地が終点どころか、街道はさらに北へ、北へと延びていることに驚かされてしまう。「義経北行伝説」はまるでそれを証明しているかのようだ。三厩では、途方もなく広い北の世界に胸を躍らせてしまう。

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