2020.10.21

私を走らせるもの vol.7 東北編(4)

思い出の風景、季節の味覚、そして本や映画、音楽などなど、あなたを旅へと誘うものは何ですか? あの頃見た光景が忘れられなくて…。小説に出てきた風景を自分の目で見たくて…。この曲を聴くと無性に旅に出たくなってしまって…。あの人に逢いたくて…。など、時に切なく、時に衝動的に、私たちを旅へ駆り立てる「装置」があります。不思議なことに、ほかの人にとっては何でもないものが、自分にとってはとても大きな影響を与えることも少なくありません。そんな、「私を走らせるもの」について、ツーリングマップル著者陣に語っていただきます。

著・賀曽利隆

~私を走らせる『羽州街道』後編 ~ by 賀曽利隆


上山宿から松岡宿を通り、桑折宿から数えて100キロ走ると、山形宿に到着だ。ここは羽州街道12番目の宿場。 羽州街道の全線を一気に走るとなると3日ぐらいの日程になるが、「桑折宿→山形宿」ならば十分に日帰りツーリングできる。 山形宿からは山形盆地を北上し、天童宿、楯岡宿と通って尾花沢宿へ。尾花沢といえば、芭蕉が「おくのほそ道」で最も長く滞在した町として知られている。 山刀伐峠(なたぎりとうげ=「おくのほそ道」最大の難所とされる)を越えて尾花沢に到着した芭蕉は、豪商の鈴木清風宅に泊まった。 清風は「島田屋」鈴木家の3代目当主で、39歳という若さ。大名に貸し付けるほど資金力のある金融業を営み、この地方の特産品、紅花を買い集める大問屋でもあった。 島田屋は江戸や京都にも支店を持ち、全国規模で商売をしていた。清風は商売人であっただけではなく、そうとう名の知られた俳人でもあった。芭蕉は江戸で清風に会っていて、3年ぶりの再会。清風宅に泊った後、養泉寺に移ったが、清風宅で3泊、養泉寺で7泊と、合わせて尾花沢に10泊している。尾花沢宿の中心街には「芭蕉清風歴史資料館」があり、その前に芭蕉像が立っている。

尾花沢の「芭蕉清風歴史資料館」

尾花沢宿を出発。次の名木沢宿を過ぎると猿羽根(さばね)峠を越える。この峠は「七十七曲がり」といわれたほどの羽州街道の難所だったが、今ではあっというまにトンネルで走り抜けてしまう。 ここは南の「村山地方」と北の「最上地方」の境で、尾花沢盆地と新庄盆地を分けている。それと同時に南の幕府直轄の天領と、北の新庄藩の境。峠には新庄藩境石標が立っている。 猿羽根峠を越えて舟形宿に下っていく。舟形宿の町並みを走り抜けると、最上川支流の小国川を渡る。悠々と流れる小国川には、本流の最上川に負けないくらいの大河の風格が漂っている。 新庄盆地の中心地、新庄宿の町並みに入っていく。ここは羽州街道の宿場町であるのと同時に、戸沢氏6万8000石の城下町。 新庄宿から金山宿を通り、主寝坂(しゅねざか)峠のトンネルを抜け、及位(のぞき)宿へと下っていく。ここが山形県内最後の羽州街道の宿場。JR奥羽本線及位駅前でVストローム1000を止め、小休止したあと国道13号で山形・秋田県境の雄勝峠(リンク)に向かっていく。交通量はガクッと少なくなる。

羽州街道の山形・秋田県境の雄勝峠

雄勝峠のトンネルを抜け出て秋田県に入った。きれいな青空が広がっている。ここまでの天気を振り返ると、出発点の桑折追分は梅雨空だった。小坂峠を越えて宮城県に入ると激しく雨が降り出した。金山峠を越えて山形県に入ると雨は上がった。そして雄勝峠を越えて秋田県に入ると晴天。峠を境にしての天気の変化がじつにおもしろい。 秋田県最初の宿場は下院内宿。宿場の入口には院内関所跡碑が立っている。院内は大森(島根)、生野(兵庫)と並ぶ「日本三大銀山」。院内銀山は久保田(秋田)藩の財政を支えたほどで、院内宿は鉱山町としてもおおいに栄えた。最盛期は明治の中後期。鉱山は昭和28年に閉山された。 Vストローム1000を走らせての秋田県内の羽州街道宿場めぐり。 秋田県内の羽州街道の宿場は多いので大変だ。下院内宿につづいて横堀宿、湯沢宿、岩崎宿、横手宿とめぐり、「後三年の役」の金沢宿へ。 「後三年の役」は平安後期の1083年から1087年にかけて、奥羽の豪族、清原氏の起こした乱。「八幡太郎」で知られる源義家はこの乱を平定し、東国支配の基礎を築いた。羽州街道沿いには後三年の役の史蹟公園(金沢公園)がある。ここには金沢八幡宮がまつられ、「金沢柵跡」(本丸跡)も見られる。後三年の役の歴史資料館もある。 次の湧水群で知られる六郷宿には、「羽州街道どまん中」の碑が立っている。羽州街道の総延長は126里16町29間で、六郷宿がその中間になる。羽州街道はここで上街道と下街道の2本に分かれる。

羽州街道中間点の六郷宿

上街道は角館から大覚野(だいがくの)峠を越え、マタギで知られる阿仁を通る。下街道は秋田を通り、2本の街道は北秋田市の綴子(つづれこ)宿で合流する。ということで六郷宿は羽州街道同士の追分になるのだが、それもあって、羽州街道では城下町を除けば最大の宿場だった。 六郷宿からはメインルートの下街道を行く。 次の大曲宿からは花館宿、神宮寺宿、北楢岡宿、刈和野宿と、秋田の大河、雄物川の流れに沿っていく。流域は広々とした水田地帯。刈和野宿を過ぎると雄物川から離れ、上淀川宿を通り、境宿へ。ここには唐松神社がある。参道の空を突くような杉木立が境宿の歴史を感じさせた。 さらに和田宿、豊島宿と通って秋田に到着。山形から260キロだ。 秋田は羽州街道の久保田宿。もともと出羽柵(城)があったが、水戸の佐竹義宣が慶長7年(1602年)に国替えになってこの地に久保田城を築城し、20万石の城下町になった。久保田が秋田と名前を変えたのは明治4年(1871年)のことだ。 秋田を出発。山形から秋田までは国道13号を走ってきたが、ここからは国道7号になる。次の土崎湊宿で、初めて海路に合流。日本海航路の要衝、土崎湊は久保田藩の海の玄関口になっていた。土崎湊宿から大久保宿、虻川宿、大川宿、一日市(ひといち)宿、鹿渡(かど)宿、森岡宿、豊岡宿と通っていく。 豊岡宿からは県道4号で檜山宿へ。檜山追分には旧羽州街道の松並木が残っている。ここで分岐するのは大間越街道で、能代から日本海側を北上し、青森県の鰺ヶ沢に通じている。今の国道101号に相当する街道だ。 檜山宿を過ぎると鶴形宿、飛根宿と通り、雄物川と並ぶ秋田の大河、米代川を渡って荷上場宿、小繋宿、今泉宿、前山宿、坊沢宿と通り過ぎていく。米代川流域の水田地帯の向こうには白神山地の山並みが見える。 国道7号と国道105号の交差点の近くが綴子宿。ここは羽州街道の上街道と下街道の合流地点。綴子宿の綴子神社を参拝。境内には日本一の「千年桂」がある。見上げるような巨樹で、綴子宿の歴史を感じさせる。

綴子宿の綴子神社

綴子宿からは川口宿を通り、大館宿へ。「忠犬ハチ公像」と「秋田犬群像」の建つ大舘駅前でV-ストロームを止め、駅前の「花善」で「極上鶏めし御膳」を食べた。 ※「忠犬ハチ公像」は現在は「秋田犬の里」に移設されています 大館宿を出発。羽州街道もいよいよ最後の行程だ。釈迦内宿を通り、秋田県最後の宿場の白沢宿へ。白沢宿は秋田県内の30宿目で、羽州街道58宿の半分以上の宿場が秋田県内にある。山形県内を合わせると42宿になる。あらためて出羽国を貫く羽州街道だということを強く感じた。 秋田・青森県境の矢立峠を越え、青森県に入った。旧国でいうと出羽国(羽州)から陸奥国(奥州)に入った。宮城・山形県境の金山峠から矢立峠までが出羽国ということになる。 青森県内の羽州街道の宿場をめぐっていく。碇ヶ関宿の追分は盛岡に通じる津軽街道との分岐点。大鰐宿は上山宿と並ぶ羽州街道の温泉町。 弘前宿は津軽藩10万石の城下町で、弘前城には東北で唯一の現存する天守閣がある。津軽平野の藤崎宿、浪岡宿からは津軽富士の岩木山がよく見える。 ※弘前城は現在本丸石垣修理中です

石垣修理工事前の弘前城天守閣

浪岡宿から国道7号の大釈迦峠を越え、県道247号で羽州街道最後の宿場の新城宿へ。JR奥羽本線の津軽新城駅前でVストローム1000を止めると、羽州街道58番目の宿場、新城宿の町並みをプラプラ歩いてみた。 新城宿からは県道234号で油川宿へ。羽州街道の終点、油川宿に到着。造り酒屋「西田酒造店」前に立つ羽州街道と松前街道(奥州街道)の「合流之地」碑前でV-ストローム1000を止めた。 桑折宿から622キロ。これには秋田県内での宿場探しにてこずり、相当、グルグルまわった距離も含まれる。羽州街道は126里16町29間といわれるように、まっすぐ走れば500キロほどの距離。 国道280号の旧道で油川宿を走り、JR津軽線の油川駅前に行く。最後は温泉銭湯の「油川温泉」に入った。

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