2022.07.28

昭和から平成へ ホッカイダー小原信好の 「AROUND THE JAPAN 日本一周35000kmの旅」vol.7

今も昔も、旅人にとって「日本一周」は憧れの旅。お金があっても、時間があっても、簡単にできることではありません。誰もができるわけではないから、日本一周をしている旅人を見れば応援したくなるし、達成した人には賞賛と尊敬の念を抱いてしまいます。 今から30年余り前、「昭和」が「平成」に移ろうとしていたあの頃、盛岡の青年、小原信好氏がバイクで日本一周の旅に出発しました。青年の日本一周を通して、当時の時代背景や、長旅にまつわる苦労や出逢い、喜びに触れてみましょう。 ※当記事はツーリングマップル週刊メルマガにて2019年1月~4月に配信した記事を再編集したものです。前回までのお話は本記事末尾の関連記事リンクからどうぞ

著・小原信好

<第7回 梅雨の九州一周編 前編>


1988年5月19日、九州の旅がスタートした。ここまで一緒だった"八つあん"と一旦別れ、単独で大分県の国東半島方面へ。宇佐市の病院で、岡山での事故で怪我した小指の消毒と包帯の交換をした。 そして悪天候が続く中ではあるが、大分県庁、佐賀県庁、熊本県庁と立て続けに到着(この日本一周では各都道府県庁をひとつのポイントとしている)。雨が続くのでテント泊は出来ず、YH(ユースホステル)に宿泊しながらの移動となった。 貧乏旅なので、宿泊費がかさむのは厳しいけれど、その代わり毎晩、様々な旅人達と出逢うことができた。いろんな話で盛り上がり、楽しい時間が過ごせた。しかも、YH泊だと"女子率"も上がるわけで…どんどん住所交換をして、ほくそ笑む小原青年だった…。 「上がる」といえば、愛車「HONDA NX125」の燃費も上々で、結構な荷物を積載しているのにかかわらず、平均でリッター40~45km程も走ってくれる。ついには「48.7km」という好データもたたき出した。「目指せリッター50km!」 しかし何故30年以上前の旅の燃費のことを、こんなに細かく覚えているのか?それは、血液型がA型のためか(?)、私がマメな性格で毎日日記を書き、食べたものやガソリン給油量、燃費を記録していたのだ。こうした日記があるといろいろなことが思い出せるのでおすすめだ。

想像を超える阿蘇・大観峰へ


さて、いよいよ九州で一番行きたかった、阿蘇の「大観峰」(九州26B-2)に到着した。 想像以上に雄大に広がるカルデラの風景には、声も出ないほど感動した。カルデラの中にいくつも町があるなんて、デカ過ぎる!「大観峰」まで行くルートからの外輪山の景色も素晴らしく、走っていても凄く楽しい! 「大観峰」の駐車場には、平日だというのに何台も何台もバイクが出入りしていた。その光景を見ているだけでも飽きることがない。東北は岩手県の、盛岡ナンバーで、しかも珍しい「HONDA NX125」に乗っていた小原青年には、地元ライダー達が次から次へと話かけてくれる。そのうち、コーヒーを沸かすは、ラーメンを作り出すはと、「大観峰」の主と化していく(苦笑)。

大観峰の主(笑)阿蘇山火口にて

旅人との再会。そして駅泊。


5月25日、「JR阿蘇駅」(九州26B-3)へ。ここまでの道中で出逢った旅人たちと、再会の約束をしていた場所だ。"サブロー"、"八つあん"に加えて岩手出身の"時代屋"さん、ほか3名が集合した!フルパッキングの旅バイクが並ぶのは壮観だ。…と、思っていたのは自分たちだけで、他の観光客は引き気味で見ていた…。 リニューアルしたばかりで、ヒュッテ風の可愛い無人駅「JR市ノ川駅」(九州25L-4)へ移動して駅泊。ここの二階が展望室になっていて、泊まらせてもらった。夜中になると例によって暴走族が集まってきたが、伊豆の時(※第4回参照)よりも全然怖くない。なんせ今回は、ゴツい荷物を満載にした旅バイクが何台も並んでいるのだ。駐車場を一周しただけで、彼らは帰って行った。 翌日、隣の食堂のおじさんに挨拶すると 「いや~、奴らのバイク音がうるさくて大変だったんだよ。助かったよ。今日も駅にいたらいいよ~」 というようなことを熊本弁で言ってくれた。気をよくした我々は、連泊を決めてそれぞれのプチ旅に出発した。自分はまた「大観峰」の駐車場にて、ひたすらライダー達とお話会(笑)を。そこで出逢ったライダー達ともまた仲良くなり、住所交換をした。彼らのところへものちのち遊びに行くことになるが、それはまた別の話。

1988年5月30日「JR市ノ川駅」(九州25L-4)

至福の時を経て、またそれぞれの旅へ


居心地の良さから「市ノ川ペンション」と呼んでいた「JR市ノ川駅」だが、翌早朝、JR職員が来て退去を求められた。どうやら通報が入ったらしく、おとなしく撤収する。 後日、あの駅隣の食堂を訪れると 「あんた達がいなくなって、また暴走族が来るようになったよ~」 と言ってくれたが、ほかの利用者に迷惑をかけているならば仕方がない。 結局我々は、「大観峰」で知り合った、熊本市内に住むGさん宅に転がり込んだ。Gさん宅ではお寿司を奢ってもらうなど、至れり尽くせりの至福の三日間を過ごした後、みんなまたそれぞれの旅へと走り出した。

南下、南下、そして本土最南端へ


小原青年は、熊本から阿蘇を横断し、高千穂経由で宮崎県庁に到達。南国の雰囲気が漂い日本有数のシーサイドラインとも言われる「日南海岸」を南下。「青島」(九州54E-4)を望む海水浴場にテントを張った。この頃、走行距離が100km未満の日が続いていたが、この日は1日で300km。程よい疲れと久しぶりの一人時間で、あっという間に眠りについた。 その後「都井岬」(九州57J-3)に立ち寄る。ここは、緑鮮やかな牧草地の向こうに青い海が広がり、野生馬も生息する絶景スポットだ。 そしていよいよ6月1日8時55分、本土最南端である鹿児島県「佐多岬」(九州63J-7)に到達! この当時、岬に行くには「佐多岬ロードパーク」(二輪500円)を通行しなければならず、自転車、徒歩では通行禁止だった。そのため自転車、徒歩の旅人達は「我々の最南端は薩摩半島の長崎鼻(九州62J-3)だ!」と叫んでいたものだ(現在、「佐多岬ロードパーク」は町道となり、無料で通行が可能)。

本土最南端「佐多岬」

ついに到達した10000km


「佐多岬」を後にして、国道269号を走りだすと鹿児島湾越しに薩摩富士と呼ばれる「開聞岳」(九州62H-2)が美しくそびえる姿が見えた。この山が太平洋戦争時、特攻隊員が最後に見る山だった事を思うと、胸にグッとくる。生きては帰れない作戦に向かって飛ぶのはどんな心境だっただろうか…。 灰を巻き上げながら「桜島」の道を通過。これは厳しかった。ここで生活する人は大変だろうなぁ、と思いつつ「桜島YH」(九州55L-4)に到着した。 翌日は朝から雨だ。24時間運航の「桜島フェリー」に乗船、15分の船旅で鹿児島市へ渡る。鹿児島県庁に到着し、ここからは北上して「えびの高原」に向かう。途中、霧島市隼人の国道10号で、バイクの走行距離が10000kmになった。続いて「霧島高原」手前の国道223号で、「日本一周旅」の走行距離も10000kmに到達した!岩手県盛岡市を出発してから2ヶ月と10日であった。

しかし感傷に浸る間もなく、大雨なので宿泊地のえびの市「えびの市営露天風呂」(現在は閉鎖)へ急ぐ。ずぶ濡れて冷えた体で湯船に飛び込む。雨でヌルい湯になってはいたが、おかげでじっくり長湯できた。生き返る。1000円という低料金で素泊まりができたのだが、当時の日記を読んでみると「去年まで500円で、今年から1000円!チクショー!」と、芸人、コウメ太夫のようなことを書き込んでいた。 翌日は熊本に戻り、更なる出逢いが待っているのであった。 次回、梅雨の九州一周後編に続く。

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