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2026.06.25
【noteにて公開中】後編:伝説の青崩峠 「日本のトンネル技術が敗退」して「リベンジ」に至った話 【だから地図は面白い】
こんにちは。ツーリングマップル編集部のマスキです。 前回、ツーリングマップル史上最も有名なコメント「日本のトンネル技術が敗退」がつけられた「青崩峠」にスポットを当て、「青崩峠がなんで崩れるのか」という話、そして「それでも通りたかった理由、通らねばならなかった理由」についてお話をしてきました。 そこには「中央構造線」という1億年前にできた日本列島の古傷があり、「塩の道」があり、「山塩ドリーム」があり、生活や文化の往来がありました。 今回はさらに青崩峠のことを深掘りしていきましょう。 (よかったら「♡」をぽちっとしていってくださいませ。大変励みになります) なお前回記事はコチラ👇
あの戦国武将が通っていた!?
さて、現代では先述の通り、「トンネル技術が敗退した」ことで有名になってしまった青崩峠(そうしたのは我々ツーリングマップルなのかもしれない・・汗)。 実は歴史の名場面、とても重要な局面で登場するんです。それが1572年の武田信玄による徳川攻めです(いわゆる西上作戦)。「戦国最強」とうたわれた武田信玄は、現代の技術でも力及ばなかったほどの難峠を、だからこそ利用して大きな戦勝を得ました。逆に家康にとっては「生涯最大の惨敗」と言われる敗北を喫した戦いとなります。
【信長包囲網】
1572年、世はまさに戦国時代。織田信長が急激に勢力を拡大していた頃。 室町幕府15代将軍・足利義昭は、これに危機感(や恐怖や屈辱?)を抱き、いよいよ全国の有力大名に「信長を倒せ」という命令(=信長包囲網)を出します。信玄はこれを「大義名分」として、元より悲願であった上洛(京都入り)を目指し、西への進軍を決めます。 ちなみに家康にも信長包囲網への参加命令は届いていましたが、家康はこれを拒否し、結果的に【信長&家康 VS 信玄+将軍+それ以外】という構図が出来上がります。
1572年当時の勢力図(ざっくり) 信玄は西へ進むにあたり、上杉や北条との 調整も欠かさなかった。最強に抜かりなし