2020.06.23

昭和から平成へ ホッカイダー小原信好の 「AROUND THE JAPAN 35000kmの旅」vol.4

今も昔も、旅人にとって「日本一周」は憧れの旅。お金があっても、時間があっても、簡単にできることではない。誰もができるわけではないから、日本一周をしている旅人を見れば応援したくなるし、達成した人には賞賛と尊敬の念を抱いてしまう。 今から30年余り前、「昭和」が「平成」に移ろうとしていたあの頃、ひとりの青年がバイクで日本一周の旅に出発した。青年の日本一周を通して、当時の時代背景や、長旅にまつわる苦労や出逢い、喜びに触れてみよう。 ※当記事はツーリングマップル週刊メルマガにて2019年1月~4月に配信した記事を再編集したものです

著・小原信好

第4回 ライダーネーム「クマさん」誕生 中部~関西編


日本一周はまだまだ序盤。本州を順調に(?)南下、この日は伊豆半島を一周。やがて陽が沈む。 警察沙汰一歩手前!?あやしい夜 国道1号沿いにある公園の駐車場端に、目立たぬようテントを張った。夜が更け、そのテントの中で休んでいると、突然、パラララ♪パラララ♪という、けたたましいホーンを響かせながら、バイクが次々と駐車場に入って来た。 ソ~っと開けて確認してみると、爆走系のバイクが数十台も(!)集まっていた。 「ヤベ~、、、」 とっさにバイク用グローブをはめ、身構える小原青年。 しかし、程なくして駐車場から全車出て行った。 「ホッ」 として眠りにつく。ところが夜中になって、あの集団が戻ってきた。そうか、「集合場所」って事は、また戻って来るわけで…。あちゃー。 「移動すれば良かった!」 と思ったが、後の祭りだ。 「お!あのバイクとテント、まだいるぜ!」 と数人が近寄ってきた。 「寝てるのか~?」 「盛岡ってどこだ?」 「テント開けちゃおうぜ!」 これはマズイ。またまたバイク用グローブをはめて、ペグ用ハンマーを用意して体勢を整えていると、 「何しんてんだ!こっち来い!構うな!」 と、先輩風の口調で近づいてきた男性が、テントを囲んでいる彼らを制止した。 「わかりましたー!」 渋々解散する男達。助かった~。先輩、ありがとう!感謝! まだ出発して一週間も経っていないのに警察沙汰は勘弁だ。結局、彼らは朝方まで騒いだ後に解散した。彼らがいなくなったのを確認して、ダッシュでテントを撤収し走り出した。もう二度と、幹線道路近くの公園では野宿しないと決めた。 富士山・浜松・そして京都へ 静岡県内に入ると、「富士山」を見ながらの走行になる。我が故郷にそびえる「岩手山」は、「南部片富士」と呼ばれる美しい山で大好きだが、やっぱり「富士山」は日本一の美しさ。圧倒的だった。 静岡県庁に到達し、浜松方面へ。浜名湖畔の高台にある「舘山寺温泉」(中部北陸12I-2)でオフロードブーツを脱いでいると、地元の方に 「スキーか?」 と話しかけられた。4月の静岡でスキーは無いだろうが、ブーツが珍しかったようだ。 「いえいえ、バイクです」 と答えると 「そうか、ポンポンか」 「ポンポン?」 浜松市はバイクの町だ。ホンダ(本田技研工業)が創業したのが昭和23年(1948年)のこと。その後、スズキ、ヤマハなどが創業して、昭和30年頃にはなんと35ものメーカーがあったそうだ。 浜松市内中、バイクが走っていたのでは?と想像される。単気筒小排気量の排気音から、バイクは「ポンポン」とか「バタバタ」と呼ばれ、浜松市民に親しまれるようになったようだ。 そうやって、地元の方との何気ない会話でその土地の文化などを知ることができる。 まだネットが無い時代、旅の情報収集は駅前の観光案内看板や温泉、食堂、ガソリンスタンド、買い出しに訪れる商店、宿などで出会った人達から得ていたのだ。 岐阜県庁、愛知県庁を経て桜咲く京都府へと旅を進めていく。 高校の修学旅行以来の京都だ。野宿生活も続いていたので、ここではユースホステル(YH)に連泊してひと息入れて、せっかく桜も咲いていることだし、荷物を降ろして軽くなったバイクで京都周辺を巡ることにした。 旅人の宿で名を得る ベース宿にしたのは「宇多野YH」(関西95A-3)だ。やっぱり京都ということもあって、宿泊者も国際色豊かな宿だった。京都市内の寺院巡りには、細い道を走れて駐輪しやすい小型バイクが本当に便利だ。ユースホステルに帰れば、宿泊者たちと夕飯を食べながら旅の報告会や、これから行く旅先の情報交換などが行われ毎夜楽しかった。 日本一周に出発して1カ月近くたって、小原青年はすっかりヒゲ面になっていた。元々ヒゲが濃いため、朝剃っても夕方には青くなってしまうのだ。当時、童顔だった小原青年は、ヒゲを生やすことで、ナメられないように大人ぶりたかった。ヒゲは長旅する男達のステータスでもあったのだ。 小原青年は、京都に来るまでほとんど他の旅人と接する事がなかったため、自己紹介では本名を名乗っていた。しかし旅人同士といえば大抵、本名では覚えづらいため、旅人ネーム、ライダーネーム、キャンパーネームで呼び合う事が多かった。 旅人ネームが特に決まっていなかった小原青年も、「宇多野YH」のとある夜、出会った旅人に「クマさん」と呼ばれることとなる。ヒゲが生えている人が名付けられやすいネームではあるが、その場の雰囲気で「クマさん」に決定!そして今に至る。 ただ当時は今と違って、体重が60kg程度だったので、痩せたツキノワグマって感じだったのだけど。 南へ、旅は続く ようやくもらった「クマさん」という旅人ネームでバイク旅を再開。京都府庁、奈良県庁、三重県庁と到達した。紀伊半島に突入すると、岩手県と変わらない自然、いや、それ以上に山深く、海岸線は険しい道が続いた。 伊勢市の南側に位置する国道260号は、当時つづら折れの道で、走っても走っても、前に進まなかった事を覚えている。 「本州の東西南北端」の一つ、本州最南端「潮岬」(関西2A-7)に到達。岬にあるキャンプ場にて、今後のルートを思案する。 昭和63年(1988年)当時は、4月10日に岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ「瀬戸大橋」が開通し、四国ブームが起きていた。そのためゴールデンウィークは大混雑するのが確定していた。となると、どこかの宿でヘルパーをして、混雑を避けてお小遣いも稼ごうと画策。で、一週間の住み込みバイトを受け入れてくれたのが、ユースホステルにも登録していた高知県の「若宮温泉」(中国・四国84M-1)だった。 次回、淡路島経由四国八十八ヶ所巡り編。淡路島では私がのちに「ツーリングマップル」著者陣に加えていただけるきっかけになった方と運命的な出逢いが待っていた…。 ※当記事はツーリングマップル週刊メルマガにて2019年1月~4月に配信した記事を再編集したものです 関連リンク

関連記事