2022.05.02

昭和から平成へ ホッカイダー小原信好の 「AROUND THE JAPAN 日本一周35000kmの旅」vol.5

今も昔も、旅人にとって「日本一周」は憧れの旅。お金があっても、時間があっても、簡単にできることではありません。誰もができるわけではないから、日本一周をしている旅人を見れば応援したくなるし、達成した人には賞賛と尊敬の念を抱いてしまいます。 今から30年余り前、「昭和」が「平成」に移ろうとしていたあの頃、盛岡の青年、小原信好氏がバイクで日本一周の旅に出発した。青年の日本一周を通して、当時の時代背景や、長旅にまつわる苦労や出逢い、喜びに触れてみましょう。 ※当記事はツーリングマップル週刊メルマガにて2019年1月~4月に配信した記事を再編集したものです。前回までのお話は本記事末尾の関連記事リンクからどうぞ

著・小原信好

第5回 淡路島で運命の出逢い&四国八十八ケ所巡り


1988年4月、兵庫県南あわじ市「大鳴門橋記念館」(中国四国61F-3)の駐車場に到着した。するとそこに「OutRider」とステッカーが貼られたハイエースとバイクが停まっていた。 「アウトライダーだ!!」 1986年に創刊された伝説のツーリングマガジン「OutRider」取材班じゃないか!やがて現れたのが、須藤英一カメラマン。そして松本充治氏。松本氏は後に一時「ツーリングマップル中国・四国」の担当もすることになる人だ。

松本充治氏は1997年のツーリングマップル初版で表紙モデルにもなっている

人生を変えた雑誌「OutRider(アウトライダー)」


「OutRider」は私の人生を変えたバイク雑誌と言っていいだろう。国内初ともいえる「ツーリング専門誌」で、デザインと写真の美しさ、それにコピーの素晴らしさもあって、「あの美しいツーリングの世界に行ってみたい!」と、すっかりバイク旅に魅了されてしまったのだ。なにしろ、OutRiderに掲載されているツーリング写真に憧れて、私はカメラマンの道へと進んだのだ。

アウトライダー創刊号と、2018年に休刊に入る前の号

聞き慣れた盛岡弁を話す編集者菅生氏との出逢い


さて、取材班にどうやって話しかけようかとソワソワしていると、なんと私のバイクの盛岡ナンバーを見て、向こうから声をかけてきた。その人が菅生雅文氏だ(菅生氏はのちに「ツーリングマップル中部」を担当。そして「OutRider」の編集長になる)。 「おめはん、盛岡がら、125ccできだってがぁ!」 「(え?すげぇ訛ってる!)は、はい。アウトライダー読者です」 「んだのガァ!俺も、もりおがの出身ダァ~!」 ここまで盛岡弁を話す人がアウトライダー編集部にいたとは…。ここで少しばかり立ち話をした後に須藤氏、菅生氏と一緒に記念写真を撮ってもらった。ファンにはたまらないひと時。 「んだば、日本一周頑張れよ!」 と、取材班は去って行った。ここでの出逢いが縁で、のちの「ツーリングマップル」発刊時に、菅生氏が北海道の担当に私を推薦してくれることになる。その話は最終回に書くので覚えておいてほしい。何が人生を決めるのか、分からないものである。

いざ、四国八十八ケ所巡りへ!


私も淡路島から旅を続ける。淡路から徳島へと渡る「鳴門大橋」は、原付バイクの通行が禁止されている。そこで「淡路フェリーボート」(現在は廃航)を利用した。 四国4県に入ったら、「八十八ケ所巡り」をしながら旅をしようと決めていた。ただ、御朱印はお金がかかるし時間も制約されるので割愛した。今思えば、これも節約するんじゃ無かったと後悔しているのだけど…。 「四国八十八ヶ所巡り」では、お遍路で札所をお参りする事を「打つ」と言う。1番礼所から巡ることを「順打ち」と呼び、通常は1番礼所から始めるのだが、四年に一度、88番札所から巡る「逆打ち」というのがあって、1988年はその「逆打ち」の年だった。そのため私も香川県さぬき市「88番 大窪寺」(中国四国60D-5)からスタートした。 1988年4月19日に始めた「四国八十八ヶ所巡り」は、4月27日までに高知県土佐市「35番 清龍寺」(中国四国84E-5)まで巡った。そして前回第4話で書いたとおり、GWの混雑を避けつつ小遣い稼ぎもするために、4月28日から5月5日までは、高知県香美市の「若宮温泉(旧太平洋高原ユースホステル)」(中国四国84M-1)で住み込みのバイトをすることになった。

荒れ果てたバイト先、若宮温泉


アルバイト予定だった「若宮温泉」は、国道からはそんなに離れていないのだが、道幅が狭く「山奥感」が凄い場所にある。建物もかなり古く、昭和40年頃の雰囲気を残し、裏には古びた病院が建ち、ユースホステルの専用棟は荒れ果てていた。住み込みバイト用の部屋に置いてあった坂本龍馬像は、夜中に動くんじゃないかと思える程の怖さで、翌朝逃げ出そうかと思ったくらいだ。宿泊客にも「怖い宿だな~」と言われる始末。 しかし、これも経験!と気持ちを切り替えて、仕事を始める。まず与えられたのは、館内の掃除から。「どんだけ掃除していなかったの!?」という状況に顔をしかめつつ、ボイラー室の清掃をして、屋根の補修や食堂のメニュー表書きなど、今までどう営業してきたのか不思議なほどに仕事がある。それでも昭和63年(1988年)は「瀬戸大橋」開通バブルでGW中の四国は今では信じられないほどのすさまじい混雑ぶりだった。こんな宿でも連日満室で、予約の電話が鳴り続け、宿泊予約を断っていたほどだ。 夕方になると、食事に出すセリやタケノコを採りに裏山へ出かける。この宿は、崖に作られた構造なので、上下の移動が多い。夕食時は、食事やビールを持って登り降りを繰り返す。これはシンドかった。布団敷きも大変な作業だった。疲れ切って自分の部屋へ戻って寝るも、怖い夢で目が覚める(笑) 坂本龍馬像は見えない場所に隠した。

若宮温泉。88年当時ですでにこんな状況(なのに部屋は満室)

短い滞在でも楽しさを味わえた。きっかけはやはりライダーだった


「やっぱり逃げようか」そう思った頃、以前ここでヘルパー経験をした事があるライダーさんが泊まりにやってきた。この人と話してみると、 「最初怖かったでしょう?でも全然大丈夫だよ。何も出やしないし。相変わらずオンボロな部屋だなぁ(笑)」 と。仕事の愚痴を聞いてもらい、少し安心した。 オーナーや従業員の方達とも、同じご飯を食べて、世間話をしているうちに、仲良くなっていった。ライダーの宿泊客とは、仕事終りに一緒に飲んだり、カラオケも一緒に歌ったり、楽しみ過ぎて注意される夜もあったほど。でも結局毎晩、何かと夢は見続けた(苦笑)。 バイトは一週間の約束だったが、女将さんには「もう少しいてくれないか」と頼まれた。楽しくなり始めたバイトだったけど、やっぱり、ゆっくりキャンプがしたいとも思っていたので、丁重にお断りした。 最終日、出発の日は晴天。お昼ご飯をいただき、宿のみんなと記念写真を撮ってから出発。住み込みバイトの給料は、一週間で3万5000円。オーナー夫妻はお年を召されていたので、「もう会えないかも」なんて考えていたら、ちょっとセンチメンタルな気持ちにもなった。その後、年賀状のやり取りはしていたものの、いつからか返信が無くなってしまった。 実は、今から3年ほど前に「若宮温泉」を久々に訪れた事がある。オーナーが変わって「ニューわかみや温泉」となって営業を続けていた。名称に「ニュー」が付いたのがいつからなのか不明だったが、建物もあの細いアクセス道も昔の雰囲気を残していた。 現オーナーに当時のオーナーの事を聞いてみたが、あいだにもう一人オーナーがいたらしく「知らない」との返事だった。せっかくなので温泉に入ると、30年前の事が走馬灯にように思い出された。

八十八ヶ所走破、そして新たな地へ


バイトを終了した日から「四国八十八ヶ所巡り」を再開する。しかし高知県香南市「28番 大日寺」(中国四国85B-3)の手前、数十mのカーブで日本一周初ゴケをやらかした。岩手県盛岡市を出発してから6441km地点だ。それでもめげずに走り続け、5月9日、徳島県鳴門市「1番 霊山寺」(中国四国60L-6)に到着する。21日間で2,295km。「四国八十八ヶ所巡り」終了。そして徳島県庁、香川県庁、愛媛県庁、高知県庁到達。 後から写真を整理したら、お寺が多く地味な写真ばかりだったが、人との出逢いが多い四国旅だった。 徳島港から大阪行きの「小松島フェリー」(現在は廃航)に乗り、遠ざかって行く四国を眺めながら、「次の四国八十八ヶ所巡りは、自転車遍路か歩き遍路をするぞ!」と心に決めた。決めていたのに、未だに実現できていない。いつかやりたいとは(少し)思っている(苦笑)。 次回、今でも続く旅仲間との出逢い「旅は道連れ、瀬戸内海~九州上陸編」へ。

一番札所 霊山寺での写真

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