2022.09.27

昭和から平成へ ホッカイダー小原信好の 「AROUND THE JAPAN 日本一周35000kmの旅」vol.9

今も昔も、旅人にとって「日本一周」は憧れの旅。お金があっても、時間があっても、簡単にできることではありません。誰もができるわけではないから、日本一周をしている旅人を見れば応援したくなるし、達成した人には賞賛と尊敬の念を抱いてしまいます。 今から30年余り前、「昭和」が「平成」に移ろうとしていたあの頃、盛岡の青年、小原信好氏がバイクで日本一周の旅に出発しました。青年の日本一周を通して、当時の時代背景や、長旅にまつわる苦労や出逢い、喜びに触れてみましょう。 ※当記事はツーリングマップル週刊メルマガにて2019年1月~4月に配信した記事を再編集したものです。前回までのお話は本記事末尾の関連記事リンクからどうぞ

著・小原信好

<第9回 本州北上、北海道上陸>


昭和63年(1988年)6月、九州一周中であった小原青年は、地元の同級生キハルの結婚式出席のため、沖縄県上陸を秋以降に延期することに決めた。そして岩手県に向かって走行を開始する。この旅で出逢った人達や、同級生の家などに泊めてもらいながらの北上旅だ。 広島県福山市では、5月に世話になったばかりのD介君の下宿先「末広荘」に舞い戻り、なんと5連泊もした(管理人さん、ご迷惑おかけしました)。「福山大学」(中国・四国45K-4)の学食にご飯を食べに行ったり、毎晩、学生たちと語り合ったり(大人なビデオを観てみたり…)と大学生活をプチ体験。D介君、それ以来30年会っていないけれど元気かな? 「末広荘」を出発してからは、毎日200~300kmの走行距離で走り抜ける。過積載の「HONDA NX125」には厳しいが、結婚式に間に合わせないと!

大阪、とある美人ライダーとの再会


急ぎながらも、公衆電話から(←もちろんこの当時、携帯電話など無い)せっせと、途中で出逢った人に連絡を入れつつ移動していた。 大阪の枚方市役所前では3月に知り合ったM美さんと再会した。 初めて会ったとき、彼女は和歌山の海辺で防波堤の上に座り、ウォークマンで浜田省吾の曲を聴いていた。まるで雑誌のワンシーンのようなシルエット。ウブな小原青年は、スタイルが良く、髪の長い魅力的な女性ライダーに声をかけられず、そのまま走り去ったのであった。がその後、交差点で止まっていると、1台のバイクが横に止まる。彼女だ!そしてNX125の盛岡ナンバーを見て声をかけてきた・・・。 「え?岩手県から来ているの?」 それからなぜか、脇道にバイクを停めて話をすることに(ドキドキ)。彼女がヘルメットを脱ぐ。すんげ~美人だ!!「やったぜ~!」と「北の国から」の純君のような心の叫びが脳内に響いた。 そんな3月の出逢い以来、密かにハガキのやり取りをして再会の約束をしていたのだ。枚方市役所前で2時間も立ち話をした。 もちろん、その他の人との再会もいろいろあったのだが、その辺の話は一部、はしょらせていただく(笑)

京都で一瞬の再会、そして再びの姉妹宅へ


京都市内に入ると、「東寺」(関西95D-6)前の国道1号交差点で、真後ろに停車した車のドライバーに声をかけられた。なんと、愛媛県「佐田岬」(中国・四国88A-6)で一緒にテントを張ったM山さんだった。すげ~!信号待ちの一瞬の再会であった。その後、ツーリングマガジン「OutRider(アウトライダー)」のフォトコンテストで、グランプリを受賞していたのがM山さんの四国旅での写真で、またまた驚いた。 まだ梅雨時期で、雨と曇りの繰り返しの中だったが、6月25日群馬県庁、埼玉県庁に到達。そして、この旅に出発して間もない頃に、東京でお世話になった、Y子さん宅にまたお邪魔することに。前回の経験を活かして、玄関には私の汚い荷物対応のため、床にはビニールの敷物と沢山のタオルが(笑)。美人姉妹と3ヶ月ぶりの再会に乾杯!到着が21時を過ぎていたこともあって、お二人とも薄着でラフな格好。小原青年は、ドキドキを抑えるのが大変だった(笑)。映画「エイリアン」のビデオを観ながらのおしゃべりは続き、夜は更けて行くのであった。

初パンク、3か月ぶりの帰宅、そして結婚式へ


6月27日、千葉県玉造町(現・成田市)でこの旅で初のパンクをやってしまう。そこで野宿旅の教祖、寺崎勉氏の「日本一周林道ツーリング」を読んで覚えていた修理方法で、初のパンク修理に挑戦。悪戦苦闘しながらも約90分かけて終了。やれば出来る子! 6月29日、「盛岡まで◯◯km」という標識が出始める。そして見慣れた景色が目に映る。3ヶ月以上前にバックミラーから遠ざかって行った岩手山が、今度はドンドンと近づいてきた。「故郷に帰って来た」という思いがこみ上げる。 そしてついに盛岡市に到着。まずはこの旅の出発時にお世話になったバイク店や、知人に挨拶をして、暗くなる頃にようやく自宅に到着。玄関では親父が待っていた。親父は髭面の息子を抱きしめ、半ベソをかきながら出迎えてくれた。久しぶりの、おふくろの料理はとてもとても美味しかった。その晩は、超爆睡であった。※第2回参照 目的であったキハルの結婚式への出席も無事果たしたのだが、なんだかんだでこの後、実に11日間も盛岡に滞在していた。ただなぜか、この期間は日記を書いていないので、さて、どんな事があったのか?もはや思い出せない・・・。

この姿で結婚式へ・・・誰?

充電完了!再び旅はじまる。青森、そして北海道へ


7月11日、日本一周を再開! まずは盛岡から一気に青森港を目指し「東日本フェリー」(現・津軽海峡フェリー)にて、いよいよ北海道は函館市に上陸した。私は広島、長崎、熊本、鹿児島など、「市電」がある景色が大好きなのだが、異国情緒を残す函館の街を走る「函館市電」もとってもいい雰囲気でお気に入り。 市街を走り、信号待ちをしているとき、横に電車が止まった。車内には満員の女子高生。高校総体(インターハイ)でもあるのだろうか、「貸切」の表示が光っている。その中でひとりの女の子が小さくピースをしていた。辺りを見渡すが、他にそれらしき相手はいない。どうやら自分に向けてのピースサインだったようだ。「俺?」と自分を指差すと、頷いている。こっちはヘルメットを被って、ゴーグルとフェイスガードをしているので顔が見えないし、せっかくなのでちょっとカッコつけてピースサインを返してみた。すると車内は大騒ぎ!電車を揺らしながら、他の子達もキャーキャー言いながら、私にピースサインを送ってくれる。一瞬だけ、人気者になった気分(笑)。幸先の良い北海道初日であった。

「沈没者」の素質アリ!


その日は函館の北に位置する「大沼」湖畔にある「東大沼野営場」(北海道6J-1)へ向かった。 そこは別名「マラスキ村」とも呼ばれており、沢山の長期滞在型旅人(「沈没者」または「ダメ人間」笑)が集まっていると噂のキャンプ場。結論から言うと、私も「沈没者」としての素質があったようで、さっそく、このキャンプ場に5連泊した。このとき「クマさん」というライダーネームは、北海道では他にも沢山いたため、「クーマン」に変更された(それがさらに変更された「裏ライダーネーム」もあるのだが、ここでは書けない・・・)。 昼はみんなで林道走行や駒ケ岳登山道ヒルクライムなど、「大沼周辺ツーリング」をして、夜は食材を持ち寄り夕食を一緒に食べて、どんどんみんな仲良くなって行く。その中のメンバー15人である日、洞爺湖「浮見堂キャンプ場(現・曙キャンプ場)」(北海道71B-2)に移動した。「洞爺湖温泉」(北海道71B-4)で開催している花火大会を見に行く。とても素敵な花火。しかしその帰り、「これが初めての長距離ツーリング」というエリミネーター乗りが、カーブを曲がり切れず、なんと深めの側溝に落ちてしまう・・・。しかし不幸中の幸いでケガは無かったので、皆で楽しくレスキューを。ただ、バイクはフロントフォークが曲がってしまい走行不能となった。この出来事により彼は「溝落ち君」というライダーネームを付けられ、旅を終了した。気の毒としか言いようがない・・・。

「マラスキ村」こと東大沼野営場

キャンプ場でエラいのは誰?


ここで、ずっと悪天候が続いていた空がようやく好転。テントから望む洞爺湖の湖面が朝陽に照らされ、キラキラと輝いていた。 「美しいなあ」 と、まったりしたいところだが、これは移動日和でもある!と夕張市から、まだ全線砂利道だった道道907号(現・国道452号)を走り、芦別市に抜け、国道38号で富良野市へ着く。富良野では伝説の「鳥沼公園キャンプ場(現在は閉鎖)」(北海道33D-4)にテントを張った。 が、ここはヤバイ・・・。かなりの沈没者的旅人が生息している。「キャンプ場からバイトに出かけている人」までいる。手慣れた旅人ばかりだ。新参者の我々には、アウェイ感が漂う。 そしてその夜遅くのこと・・・。「声が大きい」と連泊者に注意された。「ゴメンなさい」と謝り、反省した我々は声を落として静かに話をつづけた。なのにしばらくすると、なぜか先ほど我々を注意して来た連泊者達が盛り上がり騒ぎはじめた。「これは納得イカん!」と今度はコチラが注意をしに行くと、注意して来たご本人は恐縮していたのだが、一緒にいた他のメンバーから 「ここは我々の方が長いからいいんだ!」 と言い張る。「何~!」と熱くなる小原青年。かなり険悪、一触即発的な雰囲気になったが、相手側の別メンバーが間に入り、代わりに謝ってくれてなんとか場は収まった。

全線砂利道だった道道907号(現・国道452号)

翌日、その間に入ってくれたライダーと美瑛、富良野の丘巡りをした。ただ、やはりこのキャンプ場の雰囲気は肌に合わなかったため、2泊だけして移動することにした。様々なしがらみから解き放たれたくて旅に出ているのに、キャンプ場滞在者(沈没者?)同志のいざこざを経験して、結局、旅ライダー達も集団になれば、そこには社会の縮図が現れる事を知った。 次回、バイクブーム&北海道ツーリングブーム真っ盛りの1980年代後半の北海道の旅、どうなって行くのか。北海道編は3回に渡ってアップ予定!

前田真三氏の写真ギャラリー「拓真館」。美瑛を一躍有名にしたとされる「麦秋鮮列」が見える。

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