2026.09.16

僕らの非日常は誰かの日常~暮らしと観光の間で選び直された町並み~大内宿後編

みなさんこんにちは。旅人の地図「ツーリングマップル」編集部のマスキです。 前回から、いまや福島県ナンバーワン観光地となった(といって過言でない)「大内宿」が、なぜここまでの観光地になったのか、というお話をしております。今回はその続きなんですが、まずは簡単に振り返ってみましょう。(前回記事から読みたい方はこちら👇)

著・編集長マスキ

 


 

 


一般的なガイドブックやWEBの紹介では、大内宿は 「江戸時代そのままの姿が素敵!キュン🥰」 みたいなことしか書かれていません。 ですが実は、2000年頃までメイン通りはアスファルトで舗装されていた、とか、茅葺き屋根の家はトタン屋根に置き換わりつつあったという事実があります。つまり大内宿は、「江戸時代の姿をそのまま残して今日に至った」のではなく、近代化しつつあったのを止め、昔の姿に戻しながらここまで来たのです。 世の中は常に、より便利により楽に生活できるよう進化しています。その中で、あえて昔ながらの不便な生活スタイルを維持することは、我々が想像するよりはるかに難しいこと。近代化を望む住人と、それでも残すべき価値が大内宿にあると信じ、保存を訴える人。どちらが正しいかなど、わかりようもありませんが、その葛藤の延長線上で、なんとかこの姿になった。それが今の大内宿なのです。 歴史ある町並みは、誰のために、何のために残すべきなのか。ここから後半です。

近代化を後押しする公共事業


1967年、その「価値」を目の当たりにした(のちに武蔵野美術大学教授となる)相沢韶男さんを中心とした研究者の活動によって、世間の注目を浴びるようになった大内宿。住民も世間の反応に驚き、気づき、保存ムードが高まるかに思えたのですが・・ 1970年代に入ると、近くで大川ダム、大内ダムの建設が始まることになります(オイルショックの影響で水力発電の価値が再認識されたことによる)。 大内地区の住民は、土地の補償金や建設工事による働き口を得るようになり、農業や出稼ぎを中心としていた暮らしも変化。まとまった現金収入が入ってきました。このお金で家を直し、台所や風呂を新しくし、茅葺き屋根をトタンに換える。そうした近代化が進みます。 これは文化を壊そうとしたのではなく、暮らしを少しでも楽にしたいという、切実な近代化だったのでしょう。 ・・・➡まだまだ続く、苦節の道のりと、その先に見えたものとは?続きは以下のリンクからお進みください。

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